心療内科へのいざない
なぜ心療内科か --------  一番人間くさいから
体の調子が悪くなると、人は病院を受診する。

その悪くなった体の調子を何とか良くしたいと思うからである。

しかし、その体の不調と思えるものの背後には、

しばしば精神的な悩み、あるいは葛藤が潜んでいる



心療内科では、体を通してその人の生活全般を診ていく。

その過程で垣間見えてくるのは「人間」というものである。

100人いれば、100種類の生活があり、

100種類の生き方や考え方がある。

それぞれの持つ人生のドラマに、

時には人間の弱さに哀れを感じ、

時には人間の強さに感動する。

自分一人が経験する世界は限られたものであるが、

幾多の生活や感じ方・考え方を見聞きしていく過程で、

世界は広がる。

そして、人を通して自分というものも見えてくる。


心療内科では、体だけを診るのではない。

心だけを診るのでもない。

どんな患者が来ても、

その患者を全人的な視点から、

その人の問題がどのくらいが身体的なものからきているのか、

どのくらいが精神的なものからきているのかを

常に計っている。

身体的なものが大きくて精神的なものは大したことがないと判断すれば、

その病気の専門科に紹介することを含めて、

身体的診断・治療を優先させる。

またその逆であれば、

どうすればその人の気持ちを好転させることができるかを考える。


身体的なものは、目に見える。

見えないまでも、客観的な指標にして、見える形にできる。

だから、わかりやすいし、学びやすい。

いくつかの指標を基にして、ディスカッションができる。

しかし、精神的なもののほとんどは、目に見えない。

客観的な指標になるものが非常に乏しい。

だから、わかりにくいし、学びにくい。

ディスカッションをするにも、みる側の主観が入り交じる。

この見えないものをどう診るか。

診るだけではなくて、治療に結びつけていかなくてはならない。

わかりにくいものをより良くわかるために、

心理学や精神医学を学ばなければならない。

治療に結びつけるために、

心理療法を学ばなければならない。

しかし、これらの知識を基礎として身につけていたとしても、

なお、実際の臨床ではとまどうことが多い。




精神的な診断と治療は、まず、話を聴くことから始まる。

この話を聴くこと、話を聞き出すことから、

すでに医者の技量が問われる。

これはトレーニングによって、ある程度上達することはできる。

しかし、あるレベル以上になれるかどうかは

知識が豊富であるかどうかではなく、

その人の持つセンスや人間性によって決まる。


心療内科で一番しんどいのは、

ぐちや弱音や泣き言を、

ただ「そうだね、そうだね、たいへんだね。」と聴いている時である。

「もっとしっかりしろ。」と言ったり、させようとしたり、

「みんなしんどいんだ。こっちだってしんどいんだ。」と言いたくなることもある。

しかし、それらは全く解決につながらないし、徒労に終わる。

せいぜい「この先生はわかってくれない。」と感じた患者さんが離れていくだけだ。

そうではなく、

「困ったね。」と言いつつ、思いつつ、

心の中でも「困ったな。」と思いつつ、

“患者さんと共にある”ことが、

治療にはならなくても、患者さんにとっては一つの救いとなる。

そして、医者にとっては一つのトレーニングとなる。

心の度量を広げるトレーニングとなる。

そして、心の度量が広がるにつれて

「先生ありがとうございました。」

「先生の顔を見るだけでほっとします。」

と言ってくれる患者さんが増えていく。


心療内科の研修では、系統立てて教えることが難しい。

また、学ぶものも目に見えるものが少ない。

さらに、心療内科は医療経済上、日陰に置かれている。

これらのためか、心療内科で研修を受けたいと望む人は少ない。

“労多くして功少なし”と見られているのかもしれない。

しかし、目に見える功は少ないかもしれないが、

目に見えない功は労に見合った分だけ与えられる。

人の心を読む能力と人の心をつかむ力量は

労に見合った分だけ高められる。

そして、それは

医療以外の分野にも応用できる


人間が好きで、人間くささが好きで、

自分の人間性を高めたいと思う人こそ

心療内科の研修に来てほしい。

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